ウラジオストクが日本に友好的な理由・・・

20年ほどの前のウラジオストク・・・経済が動いてない時代というかお店がありませんでした。一番最悪の状態だったと思います。

モノを買うときは中国人の市場にいくとレベルの低い製品が売られてました。幸いにロシアはダーチャのシステムがあるのでダーチャ(週末農園)でジャガイモや野菜類は個人で栽培してたので農作物を知り合いと分け合ってた時代で食べるモノには困ることはなかった時代です。多くのロシア人が日本に買い物に来てました。ロシアの法律が甘い時代で日本に来て帰るときはロシア人は一人3台まで車を無税で持ち帰ることが出来たので日本に来るのは観光でなく車購入が目的の来日でした。

飛行機で来る人以外は船員手帳を持つ人はビザなしで富山や新潟の港に船をつけることが出来たのでそのロシアに帰国するときに船を車に乗せて持ち帰ってました。その数は半端な数じゃなかったですね。

ロシア政府が車の持ち帰りに規制をかけ製造から5年以内や8年以内と年式により税金がかかるようになり中古車だったら何でも良いという時代は終わり中古車販売は車を半分に裁断して車ではなく部品として日本から輸入してましたがインターネットもロシアで流行り始めてウラジオストクの生活の糧だった車の部品販売もネットで価格がロシア中に流されるようになり部品販売も廃れてきました。

今でも車や部品はウラジオストクへ輸出されてますがそれほどでなないですね。お隣の中国がほとんど日本車の部品コピーを作り日本価格の半分ではなく5分の1の値段で買えるのでお金持ち以外は中国製のコピー部品を買ってるようです。

この理由でソビエトからロシアに国の体制が大きく変わりロシア経済が最低の時でもウラジオストクの人達はロシアの他の都市より経済的には豊かという言葉は使えませんが困る人は少なかったようです。これは全部日本のおかげですと今でもウラジオストクの人達はこの事実を知ってるので日本人に対しては友好的なようです。

またシベリア内戦時は日本軍もソビエトに攻め込んでいろいろな残酷な事もあったようでバイカル湖に至る途中にはまだその当時の悲惨なことを忘れないように記念碑や銅像がたってます。

日本軍がソビエト軍の捕虜を機関車の釜に投げ込んだという電車がウスリースクに記念物といて残ってます。ロシア人とこの話をすると予想を超して返答がありました。あの機関車の石炭を投げ入れる釜の大きさを見れば人間が入れるサイズではありません(機関車はアメリカ製)のであの中に人を入れるのは無理な話です、と証拠品を見ればその話が作り話ということはすぐに分かります。日本人を庇ってくれてるのでしょうか?

日露戦争はどうでしょうか?日本では日露戦争は日本の勝利と言われてますがこの戦争に関してのロシア人の返事は・・・

あれは一時撤退でソビエトは日露戦争には負けてません!
と日本軍に撤退された事実は認めてますが歴史的に考えれば日露戦争は一部で日本が勝利しただけで撤退するソビエト軍を追いかけて成敗する余力はなかったというのが事実と思うのでロシアは日露戦争が・・・と昔の歴史を振り返っても仕方がないと思ってるようですしウラジオストクの若いロシア人はそんな戦争があったみたいね、と他人事です。
日本帝国海軍がウラジオストクに上陸するときにロシア人を歓迎してる絵です。多分、ウラジオストクのどこかの博物館にあるでしょう。
この絵画の名前は Vladivostok_intervention となってます。侵略でなくinterventionというタイトルになってます。意味的には介入という意味で決して侵略という意味ではありません。

ソビエトからロシアになった時に閉鎖都市(軍港)だったウラジオストクは一般に開放され日本の海軍ではなく日本の中古車が大量にウラジオストクに上陸した時も日本は大歓迎だったと考えることが出来ます。

ウラジオストク人でウラジオストクは日本の一部になりウラジオストク県にして欲しいという人に会ったことがあります。

現在はウラジオストク人は日本の国旗を振って歓迎はしてくれませんが30歳以上の人達は日本人と知り合った時に名前の後ろに ”さん” をつける人は少なくありません。

ウラジオストクで女性会員のご両親と話をしたと気に娘さんが日本に嫁いだら離れ離れになって寂しくなりますね、と言ったら日本はモスクワより近いです。と400キロは距離じゃないとロシアの諺通り日本には距離は感じないようです。

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